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入力性知能と出力性知能という概念

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脳のイラスト

コミュニケーション能力とよく言われるが、なぜ理解(入力)と表現(出力)を一緒くたにしてしまうのだろう。例えば、リーディングとリスニングは入力、ライティングとスピーキングは出力である(英語に限らずとも)。これらは本来別個の技術であるから、同じ人でもその能力に差があって当然なはずだ。

知能検査として一般的なWAIS-IIIでは、全検査IQのほかに動作性IQと言語性IQが測れる。改訂されたWAIS-IVではこのような分類はしなくなってしまったようだが、言語理解、作動記憶、処理速度といった下位項目はWAIS-IIIに引き続き存在している。いずれにせよ、「理解」「表現」というふうに技能別に能力を把握することは自己理解に役立つのではないか。

最近あることをきっかけに自分は出力する際の知能が自覚よりも低いのではないかということに気づき、入力性知能と出力性知能という考えに至った。コミュニケーション能力が低いとは思っていたが、それはなかでも出力性知能が低かったということだ。比して入力性知能は問題ないためその自覚がなかったのだろう。入力性知能と出力性知能という概念はすでにありそうだがないのだろうか。入力・出力する際の利き脳という考えはあるようだが学術的ではない。

suumo.jp

私と喧嘩が多い人がいた。その人は私と逆で出力性知能に比べて入力性知能が低いように思う。この「出高入低」タイプが私のような「入高出低」タイプと言語コミュニケーションをとるとどうなるだろうか。情報の流れに偏りが生じる。その人から私へという向きにばっかり伝えることができてしまう。私からその人へはあまり伝えられないのに! 両者が同タイプならこのようなことは起こらない。能力の低さで流れが阻害されることはあっても向きによって流れに差がつかないので言葉のキャッチボールは成立するからである。

私は昔から、勉強的なことで客観的事実を説明することは得意だが、自分の思っていること感じていることの表現は苦手である。感想文の類いが書けない。抽象化してしまい修飾語が少ない。昔は感動がないせいかと思っていたのだが、気持ちの言語的描写の能力がないだけなのではないかと気づいたのだ。小説を読まないため、叙情的例文の引き出しに乏しいということもあるかもしれない。鍛えられるかわからないが、もっと心情的な文章を読むようにしたい。

あらゆることを理解できても出力できなければ何の意味もない。勉強ができても仕事はできない、いわゆる無能な人は、入力性知能に比べて出力性知能が低いのではないだろうか。といっても、そのような人がすべて無能とは言えない。表現にもいろいろあって、言語表現が苦手でも音楽、ダンス、演技等、輝ける分野はあるだろう。